都田川の桜
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豊橋の石巻西川町にある「西川城址 かたくり群生地」に至る国道362号線沿には、古い史跡が残っている。三ヶ日町本坂にある橘逸勢を祀った橘神社もそのひとつ。
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橘神社入口 境内の逸勢桜
逸勢は三筆と呼ばれた書の名人であったが、政変に巻き込まれ、伊豆へ配流の途中、街道沿いのこの地で亡くなった。京から父の後を追ってきた娘は、父の供養のため尼となり、この地に留まったという。逸勢の死後、謀反の疑いは晴れ、娘は父の遺骸とともに京に帰った。その墓の跡に神社が建っている。
筆塚 鳥居 拝殿
本坂トンネルを抜け豊橋嵩山地区に入ると、民家の大きなモクレンと菜の花畑が目にとまった。
また、嵩山地区には徳川家康の側室、2代将軍秀忠の生母西郷局(お愛の方)の実家(西郷氏)の菩提寺・正宗寺がある。
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昨日のローカルニュース(愛知のTV)で、豊橋公園の桜が開花したと報じていた。早速、その状況を知りたく彼岸の墓参りを兼ね出かけた。 (写真をクリックで拡大)
豊橋公園正門(歩兵第18連隊正門) 二の丸御殿跡の桜
二の丸御殿跡には、ところどころで桜が開花し、初々しい姿を見せていた。
春の草花が、城跡の石垣の上に咲いていた。
吉田城・北御多門跡の石段を下り豊川のほとりに出る。
吉田城鉄櫓 北御多門跡の石段 腰曲輪跡
腰曲輪跡から北を見ると、川沿いにきれな花を付けた木が・・・
豊川と朝倉川の合流点付近では白い桜(?)が川面に映え美しい。
朝倉川
静かな佇まいの吉田城跡も、一週間もすれば花見の人達で賑うことだろう。
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松代が生んだ幕末の思想家・佐久間象山に関する遺構がたくさんあるが、象山神社もその一つ。 (写真をクリックで拡大)

鳥居(木製) 社殿(昭和13年建立)
境内には、象山がうまれてから29年間を過ごした住居跡がある。
生誕地の碑 象山宅跡
また、象山は門弟・吉田松陰の海外密航未遂に連座して松代に蟄居を命じられた。9年間居住した高義亭などがある。
罪をゆるされた後、しばらくして京都に出た象山は、朝廷と幕府は力をあわせなければならないことや、今は攘夷のときではないことを公家や諸大名に熱心にといてまわった。しかし、元治元年七月、攘夷派の人たちに襲われ、波乱にとんだ生涯を閉じた。
凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした京の煙雨楼の茶室を移築、移築保存にあたり煙雨亭と命名された。
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松代には、江戸時代の建築物が多く残っており、旧横田家住宅もその一つである。
旧松代藩横田家は、禄高150石の中級藩士で郡奉行などを努めた家である。
この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在の地に移った時期は十八世紀末である。 (写真をクリックで拡大)
屋敷は、道に面した表門、奥に主屋がある。
表門 式台付玄関 主屋
茶の間〔手前) 座敷(床の間・棚・仏壇) かまど
主屋東隣の隠居屋と主屋南西の土蔵からなり、江戸時代末期の様相を伝えていると言う。

隠居屋 庭園 土蔵(二棟あり)
茅葺きの屋根がことのほか美しく、内部も大切に管理され、国の重要文化財に指定されている。
3月初め、小雪舞う松代の町は人影もまばらで、静かにゆっくり旧城下町を楽しむことができた。
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長野電鉄屋代線・松代駅の南側に文武学校(旧松代藩文武学校)がある。
この学校は、松代藩が藩士の子弟に文武両道の教育をするため設置した文武学校「藩校」である。
冠木門
冠木門の入ってすぐのところにある案内版によると・・・
『この学校は、松代藩の藩校として八代藩主真田幸貫が、水戸の弘道館に範をとって藩校を計画し、九代藩主幸教がこれを引き継いで嘉永6年(1853)に完成、安政二年(1855)に開校したもので、明治に入り兵制士官学校を併設したが、明治四年(1871)廃藩と共に閉校となった。
他藩の藩校と違い、儒教の教えを排除した点にある。そのため構内に孔子廟がない特徴を持つ。この学校での教育は、藩士に対し文学(学問)と武道の両道をめざし、漢学・国史・剣術・総術・柔術・弓術をはじめ、特に西洋医学・西洋砲術を教育したところに時代を先取する気風がうかがえ、後に幾多の人材を輩出している。明治六年から松代学校校舎などに使用され、正庁(文学所・御役所)・東序・西序・剣術所・柔術所・弓術所・文庫蔵・番所・門および槍塀などの建物が残っており、昭和48年より五ヶ年かけて保存修理と腰塀土塀などを復元施工し現在残る建物群は開校当時の姿をほぼそのまま伝えている。また建築も簡素で、近代的学校建築への過渡期と言えるものである。全国的に見てもまれな藩校の姿を伝えている。』とある。
文学所では、漢学を学ぶ教室とそれに連なる御役所、中央には炊事場、文学所の上段の間にはお殿様がいて、先生方や城の重役方は中の間に、そして教わる生徒は下段の間で勉強し試験を受ける。
文学所 文学所の上段の間はお殿様の間
文学所の内部 文学所の内部 文庫蔵
西序では、東洋医学・西洋医学・小笠原流作法の勉強。東序では、兵学・砲術とフランス式の教典の勉強
西序(医学等の授業) 東序(兵学・砲術等) 槍術所
弓術所 弓術所内部
めまぐるしく変化していく幕末の中にあって、八代藩主真田幸貫や佐久間象山等が将来を見据えて開校した学校であった。教育とは、静かなる革命と言われるが、まさにその一歩がここから始まったかと思える程だった。
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海津城跡は、長野電鉄屋代線松代駅のすぐ横に広がる。
武田信玄の命により山本勘助が築城、真田幸隆も普請に携わったといれ、武田家の北信最前基地となる。永禄4年(1561)の川中島の合戦の際には武田信玄の本陣となり、上杉謙信と対峙。初代城将は、高坂弾正昌信。
築城当時は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」、その後松平忠輝が「松城」と改め、真田三代藩主幸道のときには「松代城」と改められ、維新まで真田氏の居城となった。 (写真をクリックで拡大)
前橋、橋詰門、および太鼓門 本丸太鼓門
本丸跡 東不明門 海津城址之碑
本丸戌亥櫓跡 戌亥櫓跡より見る北不明門 北不明門
明治の廃藩置県で廃城となり、石垣が残るのみとなったが、昭和56年に国史跡指定。平成の大普請では太鼓門や北不明門などが復元され、かつての姿がよみがえった。
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小布施は、長野県の北東に位置する町。
この地には、幕末維新期、松代の佐久間象山とともに「信州三山」と称される知識人の一人、高井鴻山(桝一市村酒造場12代目・市村三九郎)がいた。
鴻山は、北信濃きっての豪農商の生まれ。江戸や京都に遊学し、絵画や漢詩など多才な才能を発揮した。31歳で小布施村に戻った鴻山の元には、葛飾北斎などの文人墨客が訪れていた。 (写真をクリックで拡大)
高井鴻山記念館 高井鴻山記念館東口
高井鴻山肖像 翛然楼 ここで象山らと国事を論じた
鴻山は、葛飾北斎を招くためにアトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を建てた。
北斎のために建てられた碧漪軒 北斎はここに滞在し絵を制作
北斎は、83歳(天保13年1842)から90歳で亡くなるまで、小布施村に再三来村し、3年半滞在。岩松院本堂の天井画の大鳳凰図をはじめ、多数の肉筆画、祭り屋台2台に天井絵の傑作を残した。
北斎館 鳳凰図の下絵? 祭屋台の天井絵
尚、記念館第3展示室の穀蔵には鴻山の晩年の作品である妖怪図等を展示。
龍と和尚 妖怪図
妖怪図は、幕末から明治にかけて激変する社会の中で、鴻山が悩み苦悩した心中を表した作品といわれている。
巨万の財力を惜しみなく使い、幕末の変革に関わっきた高井鴻山が、日本の行く末を憂いている様がうかがえる。
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小布施の雁田山山麓にある岩松院を訪れた。
(写真をクリックで拡大)
落着いた佇まいの風景
山門 本堂
岩松院は葛飾北斎の描いた「八方睨み鳳凰図」が残されていることで知られている。
21畳敷きの天井いっぱいに極彩色の鳳凰が描かれていて、以前は本堂に寝て見ていたという。今は、椅子に座って見るため、その迫力は伝わってこない。
(寺のパンフより引用した八方睨み鳳凰図)
本堂の裏手に福島正則公の霊廟がある。正則は秀吉の重臣で、関ヶ原の戦いでは家康につき、安芸・備後49万石の大大名となった。しかし、1619年に広島城を幕府の許可を得ずに普請したこと等により改易され、改めて信濃川中島など4万5千石を与えられた。
失意の中にあっても新田開発や治水に努め、領内の改革に取り組み、この地で1624年64歳で死亡した。
本堂と霊廟 福島正則公の霊廟
岩松院を有名にしているのは、小林一茶の句。「痩せかへる、まけるな一茶、是にあり」。
春になると、裏庭にある小さな池に産卵のため数多くのカエルが集まり、雄蛙たちによる雌の奪い合いとなる。その蛙を見て、詠んだ句だと言われている。残念ながら池は工事のため見ることができなかった。
ここ小布施は、北斎、正則そして一茶が、年老いてから最後の活躍をした場所でもある。
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