« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月25日 (月)

夏の浜名湖ガーデンパーク

花の美術館では、スイレンが見ごろときき浜名湖ガーデンパークへ。

夏休みに入り、水遊び広場には子供たちの姿が・・・・ (写真をクリックで拡大)
A1_dsc02344 A2_dsc02343 A3_dsc02340
  緑地広場で涼をとる人    水遊び広場の子供たち          かき氷の店

花の美術館「水の庭」では白、黄、薄紅色、濃紅色スイレンが・・・F1_dsc02283w 
G1_dsc02287 G2_dsc02274 G3_dsc02271 
G4_dsc02288 G5_dsc02295 G6_dsc02285
中でも薄紫色の熱帯スイレンは何とも涼しげ・・・
X1_dsc02300w

花の美術館前の庭には、可憐なオニユリなどの花が咲き誇っていた。
E2_dsc02281 E3_dsc02305 E1_dsc02316

遊覧船ガーデンクルーズ東船着場附近はハスの花が・・・
B1_dsc02321w 
C2_dsc02262 C1_dsc02265 C3_dsc02264

夏に咲く花は、ことのほか色鮮やかだ。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月22日 (金)

湿原に飛び交う昆虫

退院して早や二週間程過ぎ、体調を確認しつつ浜北の森林公園へ。

第七駐車場近くの湿地では雌雄のハッチョウトンボが数多く飛び交っていた。あまりにも小さく、うっかりすると見落としまいそう。 (写真をクリックすると拡大)
A1_dsc02087 A2_dsc02057 
        ハッチョウトンボの雄                ハッチョウトンボの雌
B2_dsc02100_2 B1_dsc02097_2 
           雄と雌                    交尾中のハッチョウトンボ

ハッチョウトンボは小さいがゆえに天敵も多く、特に食虫植物のモウセンゴケ、クモの仲間やアオメアブなどに捕らえられ犠 牲になるという。
ハッチョウトンボを観察しているとアオメアブが突然姿をみせた。
C2_dsc02076
                  ハッチョウトンボの天敵アオメアブ
ベニシジミなどのチョウも・・・
D2_dsc02073 D1_dsc02068 D3_dsc07963 
E1_dsc02084 E2_dsc07951 E3_dsc07953   
      ミカヅキグサ           ノリウツギ                ノアザミ

のどかな湿原に飛び交うハッチョウトンボは破壊されやすい湿地での環境のなかで、多様な生物とかかわりあって生きている。
ハッチョウトンボがいつまでも見られる環境であってほしいものだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月20日 (水)

夏の万葉の森公園

台風6号が近づき今にも雨の降ってきそうな18日、万葉の森公園へ。

曲水庭園の池は、大きな雨粒がポツリポツリ輪を作りはじめていた。
 (写真をクリックで拡大)
A1_dsc02245
                                                          曲水庭園

急ぎ公園を一周すると、もう秋の七草が咲いていた。
B1_dsc02240_2 B2_dsc02249
           オミナエシ                       桔梗
C1_dsc02238 C2_dsc02254
        撫子                         萩
夏の花も・・・
D1_dsc02223_3 D2_dsc02232_2 E1_dsc02248_2
         ハス            ヤブカンゾウ          ツリガネニンジン
F1_dsc02242 E2_dsc02239 F2_dsc02257
        アサザ              ヤマユリ              ヒマワリ

花の季節は、移ろいが早い。季節はまだ暑い夏なのに・・・

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月17日 (日)

夏真っ盛り細江神社祇園祭

明応7年(西暦1498年9月20日)浜名湖が海とつながったという大地震があった。
このとき、大津波によって、浜名湖の南の端、現在の新居町にあった神社の神体がお福面とともにこの赤池の里に流れ着いた。里の人々が仮宮を建て、お祀りをしてきたが、これが後の細江神社となった。7月の祇園祭りは、このときの故事にちなみ、行われるという。

初日の16日、細江神社から侍や巫女にふんした子どもを先頭に、氏子がご神体を載せた屋台を引いて、ご神体が漂着したといわれる赤池様公園まで練り歩いた。
 (写真をクリックで拡大)
A1_dsc02124_2 A3_dsc02118
           細江神社                 神輿車の出立を待つ宮司
A5_dsc02132 A6_dsc02143
        神輿車到着                  赤池様公園の神輿車
地元の人が見守る中、ご神体を前に宮司が町の安全と発展を願い、鮮やかな真っ赤な衣装の巫女たちが舞を奉納した。
B1_dsc02161w
C2_dsc02175_2 D1_dsc02196
安全祈願や巫女の舞が終わると餅投げが・・・
D2_dsc02204_3 E3_dsc02217_2
             餅投げ                   本殿に戻るがご神体 

今年は東日本大震災を配慮し、船での神輿のお渡りは中止となった。
真夏の昼下りのひと時を楽しんできた。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月15日 (金)

遠州大念仏

浜松旧市内から浜北方面は7月がお盆。この地方の盆の伝統行事が「遠州大念仏」。
地元の念仏組一行が初盆先を回り、先祖の霊を慰める。

近くのKさん宅庭先では、14日20時過ぎ、太鼓を勇ましく踊るようにして打ち鳴らす初盆供養の大念仏が演じられた。 (写真をクリックで拡大)
A0_dsc01959
A3_dsc01968 A4_dsc01982 
B1_dsc02028 B2_dsc02031 
C0_dsc02033

遠州大念仏は、三方ヶ原の戦いおよび犀ヶ崖の戦いで犠牲となった人を弔うために始まったという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月12日 (火)

高野山奥の院-2

「金の川」に架かる「中の橋」から、御廟川に向かう参道は無数の石塔が並ぶ。

参道に並ぶ歴史的人物の供養塔(五輪塔)を見ているとタイムスリップしたよう。
 (写真をクリックで拡大)
A2_dsc01211w
                      杉木立に囲まれた参道
中の橋を渡り、すぐのところに芭蕉の句碑が目にとまった。
   「父母のしきりに恋し雉の声」
B1_dsc01166_2 B2_dsc01212_2
                                芭蕉の句碑
崇源夫人五輪石塔(県指定 史跡)
奥の院最大の五輪塔は徳川2代将軍秀忠の正室・お江のもの、崇源院の供養塔。通称、一番石と呼ばれている。徳川忠長が母である崇源院の追善供養のために、1627年(寛永4)に建立した供養塔という。
C1_dsc01213_2 C2_dsc01222_2

松平秀康及び同母霊屋(重要文化財建物・世界遺産)
向かって右が越前松平初代当主である松平秀康を祀る霊屋で、西暦1607年(慶長12年)に二代当主忠直によって建立された。左側は秀康自身が母公を祀るために西暦1604年(慶長9年)に建立されたもの。
D1_dsc01180_3 D2_dsc01176_2

豊臣家墓所(県指定墓所)・織田信長墓所
この墓所の正面には、豊臣秀吉とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人などの豊臣一族の墓。近くには、本能寺の変で遺体すら発見されなかった信長の墓所も・・・F1_dsc01182 F2_dsc01187

御廟橋より先は撮影禁止。この先には弘法大師の霊廟がある。
H1_dsc01195w
                           御廟川

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 8日 (金)

高野山奥の院-1

高野山の旅の終わりは、聖なる地、霊場と呼ばれる、弘法大師の御廟のある奥の院を訪ねた。

奥の院は川と橋の三重構成になっている。一番初めの橋は街中を流れる「おどり川」に架かる「一の橋」、次は「金の川」に架かる「中の橋」、一番奥の御廟川にかかるのは「御廟橋」と呼ばれている。
A1_dsc01294
B1_dsc01296 B2_dsc01283
     おどり川に架かる一の橋            弘法大師御廟に向かう参道

先ず、「一の橋」から奥の院参道を中の橋までの参道に並ぶ、歴史上の人物の供養塔をたずねた。

武田信玄・勝頼墓所(県指定史跡)
武田信玄は、好敵手上杉謙信とともに乱世に生きた戦国武将。向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼供養塔。
C1_dsc01270 C2_dsc01272

上杉謙信霊屋(重要文化財建造物・世界遺産)
上杉謙信、景勝の廟墓。謙信は生前、高野山を2度訪れている。「謙信」の名は高野山の僧に授けられたもの。建物は、江戸初期頃の建立と推測されている。
D1_dsc01278 D2_dsc01274_2

井伊掃部頭の供養塔
井伊掃部頭は、彦根藩の藩政を努めた後に、一躍大老にとりたてられたが、江戸幕府最後の時期と重なり、その反動的な行政は著しく当時の人々から反感をかい、遂に1860年に江戸城桜田門外で水戸の浪士の闇討ちに遭って、殺された。井伊掃部頭の供養塔の両脇には、井伊家一族の供養塔が多く建てられている。
E1_dsc01262 E2_dsc01260

中の橋を渡るとすぐ汗かき地蔵がある。
汗かき地蔵は、常に人々の犯した罪に苦しみ、その苦しみを慈悲によって代わって受け、そのため汗を汗を流しているといわれている。
H1_dsc01238w
                           中の橋
G1_dsc01239 G3_dsc01236 G4_dsc01235
        中の橋            汗かき地蔵         樹木の中の地蔵尊
 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 5日 (火)

初めての入院

一週間余り前の先月26日、アッシーとしてコープ小豆餅店へ。駐車場(車の中)で買い物の終わるのを待っていた。
暇つぶしにテレビの政治討論番組をワンセグで見ようと携帯電話を取り出した。
右手に持ったものの、一定位置に保持出来なく、左手でTVボタンを押そうとしてもダメ。声を出そうとしてもロレツがまわらない。
すぐさま救急車で、聖隷浜松病院へ。(自分自身は、救急車を呼ぶなんて大げさと拒んでいた)
救急車に運ばれるとすぐさま体温測定(38度)、意識確認のため「氏名」「生年月日」「今いる場所」等を問かけられたが、ハッキリと答えることができた。

後の病院の診断では、この時点で一時的に脳の血管を詰まらせるた小さな血栓が飛んでしまい、良い結果をもたらしたとのこと。

A1_p1020419_3 聖隷浜松病院の救急に運ばれても、救急車に搬送された時と同じよう「氏名」「生年月日」「今いる場所」等の問い掛けによる意識確認後、すぐさまCTとMRIによる検査へ。
MRI検査でも脳内の血栓は見つからなかった。一過性脳梗塞だったようだ。診断では「一過性脳虚血発作」となっている。だがMRI検査の画像には、過去の脳内出血の痕跡が多数映っていた。

検査後は一般病棟で再発防止の治療開始。血液が固まらないよう「血液をサラサラにさせる薬」などまる3日間、点滴の連続。こ の薬は出血しても固まらない(脳内出血にはマイナスに作用)副作用がある。点滴にその副作用を緩和する薬液を追加。その効果を確認するための血圧測定。もちろん発病前に使っていた血圧を下げる薬は取りやめ。
「血液をサラサラにさせる薬」で充分血圧が下がることが確認できた後は、市販のカプセル型、錠剤型の投薬に置き換え、その効果を確認。
更に新薬剤の副作用等を確認のため採血・分析。

この間、点滴・投薬と並行して二日目からは決められたメニューでリハビリ開始。
食事は減塩メニュー(写真は7月3日の朝食、献立表は7月5日朝食)で塩は約2g。
常に十二分の水分補給に心がけるていた。
また、運動不足解消のため、病院の廻りを一周したりするリハビリメニュー等で楽しく汗を流すことができた。
C1_p1020416_3 D3__edited1

病棟は、一般病棟。脳梗塞患者が四人。59歳。61歳、71歳と79歳だった。
B1_p1020430_6 中には二年前に心筋梗塞で当病院で手術、今回は脳梗塞を発病、一般病棟に移る一ヶ月間ICU(集中治療室)に入っていた人もいた。どちらの病も夜中就寝中に発生し、異変に気づいて三時間後に救急車で運びこまれたとのこと。今少し遅くなったら助からなかったといっていた。
 

71歳まで病院への入院経験がないことを自慢に思っていたが、これからの健康に何のプラスにもならないことがよくわかった。

何等かの危険信号をキャッチして早期治療に至るかどうかがその後の病状を大きく左右することになる。自己判断をすることなく必ず病院に行き、CTやMRI等による脳の画像診断・検査を行うべきだということがよくわかった。
たまには、健康維持のため、色んな検査の必要性を実感する出来事であった。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »