2012年5月14日 (月)

岡山城

しばし中断していた尾道、倉敷方面の旅行記、あとは岡山を残すのみ。

岡山城本丸の背後を旭川が流れ、さらに対岸には日本三名園の一つ後楽園がある。
城の天守台は、北に大きく突き出た不等辺五角形で、全国に例のない珍しい形をしている。
本の丸に月見櫓、不明門が復元されている。 (写真をクリックで拡大)
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           旭川                    旭川に面して建つ岡山城

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       廊下門          廊下門(本丸側)              不明門

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                  岡山城(黒い外観から烏城と呼ばれた)

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                        月見櫓                                            月見橋から見た月見櫓


案内板によると、岡山城の沿革は・・・
 備前の国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。それまでは金川の松田氏の属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。
ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行い、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣を落成するにおよんで、城普請は一段落した。
これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し近世城下町の骨格ができあがったのである。
宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島は流された。その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年あまりで急死し、後継者がなかったのでこの家は断絶した。
そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。
以後池田氏31万5千石の時代が続き明治維新におよんだ。

 

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2012年4月26日 (木)

倉敷大橋家住宅

倉敷美観地区の中心部より少し離れた場所に大橋家住宅がある。倉敷の町屋で唯一内部を公開されている住宅。

案内書によると
大橋家の先祖は豊臣氏に仕えた武士。1615年大阪落城の後、京都五条大橋辺りに隠れ住んだようで、幕府の追及を逃れるため大橋を称するようになったと言われる。このころから数えると400年余りの歴史がある家柄となる。

通りに面して長屋門があり、主屋は、前庭を隔て門の奥側に配置されている。
 (写真をクリックで拡大)
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                      大橋家・長屋門
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     長屋門から見る前庭                       主屋
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土間                           台所
主屋には畳の部屋が縦横無尽にある。
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                                        しんざしき
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           内蔵入口                        こざしき

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            書斎                        中庭 


優美なたたずまいを今に伝える貴重な建築物である。当時の町屋の豪華さが印象に残った。

 

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2012年4月25日 (水)

倉敷の街並み

大原美術館、喫茶エル・グレコを後にして、倉敷川沿いを散策。
 (写真をクリックで拡大)
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         大原美術館                       喫茶エル・グレコ

倉敷川の水面には柳の木や、白壁、なまこ壁が影をおとし、伝統的な日本建築の美しさを醸し出していた。
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                             倉敷川
江戸時代には米の積出地として栄えたところでもあり、土蔵などから往時が偲ばれる。
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       考古館             倉敷民芸館               倉敷館
川下りは倉敷美観地区によく似合う風景でもある。
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路地に入れば当時の建物を修復・再生したギャラリーや喫茶店、土産物屋などが並ぶ。
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2012年4月23日 (月)

大原美術館

悪天候のなかスタートした尾道、倉敷方面の旅。朝から晴天の二日目はフリーの旅。早速、倉敷の街を気ままに散策。

古い街並みが整然と広がる倉敷川河畔。そんな街並みに違和感なく溶け込むギリシャ神殿風の大原美術館へ。  (写真をクリックで拡大)
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大原美術館は、優れた作品を核とした西洋美術コレクションを誇る日本を代表する美術館。

本館では、エル・グレコ、クロード・モネ、ゴーギャン、セガンティ-ニなどの作品にであうことが出来た。
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      エル・グレコ「受胎告知」         ポール・ゴーギャン「かぐわしき大地」
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        クロード・モネ「睡蓮」            セガンティーニ 「アルプスの真昼」
 
大原美術館・本館の正門隣に「エル・グレコ」という喫茶店があった。モダンな外観と店名にひかれてコーヒーブレク。
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高い天井、どっしりとしたテーブルなどゆったりくつろげる倉敷らしい喫茶店だった。
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この後、倉敷美観地区の街並み散策へ・・・

 

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2012年4月18日 (水)

鞆の浦~対潮楼

鞆の浦は、広島県福山市南部に残る古い町。古代から瀬戸内海航路の要所として発展してきた。

海岸山福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されている。
 (写真をクリックで拡大)
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客殿からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残している。
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客殿からは、朱塗りの弁天堂が建つ弁天島や、瀬戸内の島々が見える。
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対潮楼は、「いろは丸事件」の際、坂本龍馬と紀州藩の交渉の場ともなっている。
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そこには、憂国の志士達の集合写真が・・・。

 

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2012年4月11日 (水)

大山祇神社

雨の千光寺山を後に、しまなみ海道の中央に位置する大三島へ。

大三島にある山の神、海の神、戦いの神として尊崇を集める大山祇神社を参拝。
 (写真をクリックで拡大
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境内に入ると、境内いっぱいに枝を広げた楠が。D1_dsc01461w
当社を創祀した乎知命手植の楠は樹齢2600年。天然記念物の能因法師雨乞の楠は、樹齢は3000年という。
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弘安4年、蒙古襲来の際、河野通有が参拝祈願して出陣。その時かぶとを掛けた楠。
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神門から拝殿へ。
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拝殿に手を合わせ、旅の安全を祈願。
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           拝殿                            拝殿

強風の吹くなか、しまなみ海道を戻し次の目的地、鞍の浦へ。

 

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2012年4月 9日 (月)

千光寺公園から尾道の街を望む

千光寺山ロープウェイで山頂駅に降りると美しい光景が。尾道の街や尾道水道、向島、尾道大橋は雨に霞んでいた。  (写真をクリックで拡大)
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尾道水道は、尾道の中心市街地のある本洲と造船所のある向島を隔てる。
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千光寺境内には、多くの巨石がある。「玉の岩」は境内にある巨岩の一つ。今はそのてっぺんに電灯が載るが、上古にはここに珠玉があって、毎夜海を照らしていたという。
この巨岩は「玉の浦」などの呼び名をもつ。また、尾道は、玉のある海辺から「玉の浦」とも呼ばれる。
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                         玉の岩

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           大師堂客殿                     大師堂


志賀直哉の長編小説「暗夜行路」にも書かれている驚音楼の鐘。
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                          驚音楼


本堂の右手奥には、「三重岩」と呼ばれる奇岩が。本堂に迫って来そうな迫力。
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           千光寺本堂                        三重岩


この後、雨の千光寺山を後に、しまなみ海道を経て大三島へ。

 

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2012年4月 5日 (木)

大荒れの中の旅行

一昨日から昨日にかけ、日本中どこも、爆弾低気圧による雨と暴風で大変だった。

この悪天候の中、尾道、倉敷方面の旅行に。

尾道駅北側の小高い千光寺山の頂にある千光寺山公園へはロープウエイで。
山頂から見渡す尾道の街並みは雨に霞んでいた。
 (写真をクリックで拡大)
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                     千光寺山頂から見た尾道の街

続いて、しまなみ海道を渡り大三島へ。時折り突風も吹き、大山祗神社参拝時には風がますます強くなってきた。
尾道までの帰路は、しまなみ海道を引き返せるか心配だったが、予定通り尾道のホテルへ。
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                         鞆の浦の波しぶき

2日目は、雨も上がり朝から春らしい良い天気。午前中は倉敷美観地区を散策。D1_dsc01614
                       倉敷美観地区を流れる倉敷川

午後は、岡山市へ移動、岡山城と岡山後楽園の素晴らしい景観を堪能した。
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                      後楽園「沢の池」から見る岡山城

一日目は、雨と大風に悩まされたものの、なんとか無事旅を終えることができた。

詳しくは次回に。

 

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2010年7月19日 (月)

津和野殿町

津和野は、江戸時代を通し城下町として発達した。関ケ原合戦の後、津和野城を築いた吉見氏は、毛利氏の萩移封に従い津和野を後にした。そして、津和野にやってきた坂崎氏は、在位16年の短期間に津和野城を改築し、城下町の骨格を形づくったという。そして、元和3年(1617)に因幡(鳥取県)鹿野城主であった亀井政矩が4万3千石の藩主として津和野に入り、以後、津和野は亀井氏11代の城下町として繁栄を続けた。

津和野川を渡り、殿町に向かうとすぐ西側に、太皷谷稲成神社の鳥居が見えた。全国で唯一「いなり」を「稲成」と表記されたお稲荷さん。領民安寧のために三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したことに始まる。
(写真をクリックで拡大)
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 標高367mの三本松城址       稲成神社鳥居          稲成神社社殿
 
なまこ壁の土塀が続き、傍らの水路にコイが泳ぐ津和野を代表する殿町。
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    津和野川             なまこ壁の土塀            掘割の鯉
 

西側には津和野藩筆頭家老であった多胡家の表門・番所・土塀が残る。
さらに亀井氏時代の藩家老を務めた大岡家表門が古風な構えを残していた。門の中は、津和野町役場として使われている。
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    多胡家の表門          大岡家表門             津和野町役場

東側には養老館長屋、津和野カトリック教会等が並んでいた。養老館は、亀井氏8代矩賢が天明6年に創設した藩校。
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         藩校養老館                     津和野カトリック教会

津和野カトリック教会は、内部は畳敷きで、鮮やかなステンドグラスが印象的な石造りの教会。 昭和6年、ドイツ人ヴェケレーによって建てられたもの。
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                        教会内部は畳敷き

城下町の古い町並みに西洋ゴシック建築の建物がひときわ目を引いた。

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2010年7月14日 (水)

萩城城下町

萩は、四百年前に毛利輝元によって作られた三十六万九千石の城下町。武家屋敷と商人の住まいが残っている。
通りには、そこに住んでいた人達の職業に由来した町筋の名称があり、今でも城下町の面影をとどめている。 (写真をクリックで拡大)
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円政寺。元は、大内氏の祈願寺で、大内氏滅亡後、毛利氏が萩に築城と同時に山口より移築。寺の境内に金毘羅社があり、神仏分離令にもかかわらず今もこの形態が残っている。
伊藤博文は子供の頃一年半の間、、円政寺住職に預けられ、寺の雑用はもとより、読書、習字や、行儀作法を厳しく躾けを受けた。
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 金毘羅社の鳥居・山門        円政寺の山門           金毘羅社社殿

金毘羅社の拝殿の前に大きな赤い天狗の面がかけてあるが、天保の末年近所に生まれた高杉晋作がまだ幼かった頃、家人にここに連れて来られて、この面を見せられて物おそれしないように躾けられたと云う。
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  晋作・博文等が遊んだ木馬(神馬)             大きな赤い天狗の面

江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁などと呼ばれている小路には、青木周弼旧宅、木戸孝允旧宅、萩藩御用達の豪商菊屋家、高杉晋作生誕地やなまこ壁の土蔵、門、土塀などが並んでいる。

青木周弼旧宅
青木周弼は、現在の周防大島町の医者の家に生まれ漢方医学を学んだ。江戸でオランダ医学を学んだ後、長崎に遊学。長崎での評判を聞きつけた萩藩主毛利敬親によって召し抱えられた。平成2年、青木周弼旧宅の土蔵床下から木箱、金属箱各1個が発見された。
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    青木周弼旧宅            住宅内部         土蔵床下から一分銀

木戸孝允旧宅
木戸孝允は、天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男として、ここに生まれた。8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。
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    木戸孝允旧宅

菊屋家住宅
菊屋家は、江戸時代初期の建物で、築400年の歴史をもつ御用商人の豪邸。屋敷は常に御用屋敷としての体面整備に配慮して、屋敷建物を大切に維持してきた。
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   菊屋家のなまこ壁        菊屋家の内部        博文の洋行土産の時計

高杉晋作誕生の地
幕末に活躍した高杉晋作は、1839(天保10)年、萩藩士高杉小忠太の長男としてこの地に生まれた。1857(安政4)年、久坂玄瑞のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。
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       高杉晋作誕生の地


城下町萩の顔とも言えるこの一帯は、美しく静かな佇まいをみせていた。

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