2011年4月16日 (土)

外国人居留地グラバー園2(九州への旅-14)

幕末のころ、長崎の街は、日本の夜明けを夢見る人々の熱気に溢れていたという。遠く大洋の波を超え、夢を抱きやってくる異国の商人たち、倒幕の野望に燃える幕末の志士たちや、西洋の学問を志す日本の若者たち。あれから100年以上たった今も、長崎に暮らした商人たちの邸宅が、形を変えることなくグラバー園に残されていた。

旧ウォーカー住宅は、初期の日本海運業界に多大な功績を残した英国人ロバート・ネール・ウォーカーの次男、ロバート・ウォーカー・ジュニアの旧邸。屋根から突き出した日本風の庇など、細部に日本趣味が反映されている。
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                   旧ウォーカー住宅(明治中期)
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      旧ウォーカー住宅内部                   白いベランダ

グラバー園には、世界的なオペラ歌手として名声を馳せた三浦環の像やプッチーニの像が建立されており、「マダム・バタフライ」ゆかりの地として知られている。
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          三浦環の像                   プッチーニの像

園内最後は、お洒落な喫茶室「旧自由亭」で長崎港を眺めながら一息。
この建物は元は自由亭という日本最初の西洋料理店だったもの。建物は長崎裁判所の検事正官舎として使われていたが、1984(昭和49)年に建物の一部がグラバー園に移築復元されて喫茶店になった。
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                       旧自由亭
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       西洋料理発祥の碑                   自由亭内部

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2011年3月31日 (木)

外国人居留地グラバー園(九州への旅-13)

ペリーの浦賀入港から5年後の安政5年(1858年)、諸外国は通商貿易を求めて相次いで来航し、幕府に開国を迫った。幕府は開国へと踏み切り、英国・アメリカをはじめとした5ヵ国と修好通商条約を締結した。翌、安政6年(1859年)、長崎は横浜・函館ともに開港、外国との自由貿易時代へと突入した。

長崎も外国の商人の住む居留地を確保するため、急いで埋め立てや造成をはじめた。グラバー園一帯は、出島等とともに外国人の居留地となった。
園内には居留地時代から現存する旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、市内に点在していた6棟の洋館を移築し計9棟の洋館があり、ありし日の面影を今に伝えている。

旧グラバー住宅は、1863年に建てられた日本最古の木造西洋風建築。グラバーはスコットランドの出身で21歳の時に長崎に来てグラバー商会を設立。幕末の激動の時代に、志士達を陰でささえた。このグラバー邸は坂本龍馬等が出入りした。
 (写真をクリックで拡大)
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                        旧グラバー住宅

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      グラバー胸像        旧グラバー住宅      旧グラバー住宅(客用寝室)


旧リンガー住宅は、幕末から明治になったばかりの頃の石造りの洋風住宅。イギリス人フレデリック・リンガーが明治時代に住んでいた。C1_ringa_h
                         旧リンガー住宅
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           居間                        応接室


旧オルト住宅は、長崎に残る石造りの洋風住宅の中で最も大きい。この家にはイギリス人ウィリアム・オルトが1864年~1868の4年間住んでいた。
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                          旧オルト住宅
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           応接室                         居間

明治32年(1899年)に外国人居留地は廃止されたが、その後も洋館は残り、長崎の街に異国情緒を醸し出していた。そして昭和45年(1970年)、次第に少なくなってきた洋館を保存しようと、旧グラバー住宅などがあった南山手の丘を整備。市内に現存していたさまざまな洋館を移築して、グラバー園が誕生した。

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2011年3月28日 (月)

長崎港遠望(九州への旅-12)

長崎は、その昔ポルトガル船が来航して以来、港中心にすべてが始った。長く鎖国が続いたけれど、唯一ここだけが開かれていた。海外の文化や文明が流れ込み、たくさんの人々が行き交ったところでもあった。  (写真をクリックで拡大)
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                          長崎港
 

長崎は造船の街でもある。港を挟んで大小の造船所が向き合っていた。
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            造船所                女神大橋(ヴィーナスウィング)
 

港には、海運会社の巨大な壁のような箱型の船が浮かび、埠頭には、豪華客船サファイア・プリンセスが接岸していた。
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         大型の運搬船               豪華客船サファイア・プリンセス
 

山手に目を移すと、建物がたち並ぶ坂の街、長崎の風景があった。
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大浦海岸通り近くには、「わが国ボウリング発祥の地」をあらわす碑や「長崎市べっ甲工芸館」がある。べっ甲工芸館は、明治時代は貿易港長崎税関の跡でもある。
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     ボウリング発祥の地の碑               長崎市べっ甲工芸館    

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2011年3月22日 (火)

大浦天主堂(九州への旅-11)

土産物店などが軒を連ねる坂道をあがると、大浦天主堂が姿を現す。
 (写真をクリックで拡大)
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       案内標識         多くの外国の観光客     土産物店の並ぶ坂道 
   
大浦天主堂は、フランス人プチジャン神父の尽力によって1865年に建立された日本最古の木造ゴシック造りの教会。豊臣秀吉の禁教令で処刑されたキリスト教徒・日本26聖人に捧げるために建立。正式名称は「日本26聖人殉教者聖堂」という。
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                                     大浦天主堂(日本26聖人殉教者聖堂)

入口中央に置かれている優しい顔をしたマリア像は、日本に数多くの信徒達がいたというニュースが全世界に伝えられた後、フランスから記念に贈られてきたもの。
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       日本最古の教会                   日本の聖母像           堂内のステンドグラス

隠れキリシタンたちが弾圧の目を逃れ、ここを訪れたという。
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潜伏信徒発見のレリーフ    ローマ法皇とプチジャン神父   背後からの「大浦天主堂」

美しい教会には、悲しいキリシタン殉教の歴史が刻まれていた。

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2011年3月 9日 (水)

長崎平和公園(九州への旅-10)

長崎平和公園は、長崎駅の北東にある総合公園で、四つのゾーンがある。

長崎原爆の日に、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される「願いのゾーン」と
被爆の史実を伝え、被爆により亡くなっ方々の冥福を祈る「祈りのゾーン」がある。

今回の見学は、「願いのゾーン」と「祈りのゾーン」の二箇所。

願いのゾーン
原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は、「平和祈念像」の前で行われる。、「高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている。」
  (写真をクリックで拡大)
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                        平和祈念像

平和祈念像の正面には「平和の泉」がある。周囲には「世界平和シンボルゾーン」として、世界各国から贈られた平和を象徴する15個のモニュメントが配置されている。
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       折鶴の塔            平和の泉          平和のモニュメント

爆心地近くの軍需工場に働く、動員学徒、女性挺身隊の中学生や女学生の冥福を祈る長崎の鐘や長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分の発掘遺構がある。
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           長崎の鐘                浦上刑務支所の発掘遺構

祈りのゾーン」は、原爆落下中心地区であ り、原爆落下中心碑と浦上天主堂の遺構や
被爆50周年記念事業碑(母子像)などが ある。

この地の上空500メートルで炸裂した原爆は、一瞬うちに多くの尊い人命を奪った。塔の前に置かれた原爆殉職者名奉安箱には原爆により爆死された方、被爆者でその後亡くなられた方々の名前を奉安されている。
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                       原爆落下中心碑
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       旧浦上天主堂遺壁                   母子像
再びあの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、建てられた「平和の母子像」も・・・
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         平和の母子像                   平和を祈る女

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2011年3月 8日 (火)

原爆遺跡 一本柱鳥居(九州への旅-9)

ホテルから長崎平和公園へ行くバスの車窓から、原爆遺跡などを探してみた。

原爆遺跡 一本柱鳥居  (写真をクリックで拡大)
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爆心地から南南東約800メートルの高台にあり、今も貴重な原爆遺跡として残っている。
1924年(大正13)、山王日吉神社の二の鳥居が建立され、のち参道に一の鳥居から四の鳥居までが建てられていた。
1945年8月9日の原子爆弾で鳥居は破壊されたが、そのなかで二の鳥居は強烈な爆風によって爆心地側の半分が吹き飛ばされた。二の鳥居は今なお奇跡的にも一本柱の状態で建ち続けている。

浦上天主堂(昭和34年再建、55年改装)
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爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。投下当時、天主堂に来ていた多数の信徒は、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり全員が死亡。
被爆した天主堂は瓦礫などを昭和33年から撤去し整備、遺構の一部は保管・移設され、昭和34年に再建された。その後、昭和55年には、創建当時の姿に改装された。

如己堂(浦上地区の人々が、永井博士にプレゼントした家)
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永井隆博士は、浦上天主堂近くにあった長崎医科大学の助教授で、昭和20年8月9日午前11時2分、放射線研究の最中に被爆した。当時37歳、原爆投下前にラジウム放射線研究のため既に白血病を患い、余命3年と言われていた。瓦礫の中から這い上がった彼は、自分も重傷を負っていたが、医大病院の重症患者の治療に当たった。翌日、永井博士は、ようやく爆心地近くの我が家に戻る。二人の子供は、疎開させていて、妻が留守宅を守っていた。家の形は跡形も無くなっていた。台所近くに、妻と思しき焦げた小さな肉塊を見つけた。傍には彼女のロザリオが焼け爛れて残っていた。遺骨を墓へ納めて、その後再び、治療現場へ戻った。救護班を組織し、患者の治療、原爆症のカルテ整理に励んだ。
しかし、遂に力尽きて倒れ、原爆症の症状が現われた。ひとまず危篤状態を脱して療養期間が続いた。昭和21年1月、長崎医科大学教授となった。
治療と入院を繰り返したが、その後、永井博士は寝たきりになった。
昭和23年、永井博士は長崎の人々の心を癒すために、桜の苗木1000本を贈呈した。浦上地区の人々は、永井博士のために2畳一間の小さな家を建てて、プレゼントした。博士は「己の如く人を愛せ」の信条からこの家を『如己堂(にょこどう)』と名付け、二人の幼子と共に住んだ。昭和26年5月1日、永井博士は永眠する。享年43歳。

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2011年3月 7日 (月)

ホテルから眺めた長崎の街(九州への旅-8)

長崎のホテルは、街を一望できる稲佐山の中腹にあった。
 (写真をクリックで拡大)
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 TV送信塔の建つ稲佐山(標高333m)           ホテルから見える長崎港

長崎の夜景は、函館、神戸と合わせ「日本三大夜景」の一つとされるほど。
そこでホテルベランダから夜景・夜明けの街を撮ってみた。
2月25日 18:01
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2月25日 19:40(すっかり暗くなった)
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2月26日 6:20(間もなく日の出)
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2月26日 6:45
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夜景もさることながら、山の端の白むころの風情もなかなかよかった。

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2011年3月 5日 (土)

柳川の町(九州への旅-7)

北原家は、代々柳川藩の御用達し海産物問屋だったが、父の代に造り酒屋となった。明治34年の大火で大半は焼失。この母屋だけが残り、昭和44年11月に復元された。
 (写真をクリックで拡大)
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                         白秋生家
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                         生家1階配置図

玄関を入ると直ぐに、造り酒屋を偲ばせる酒樽が並ぶ
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 店を飾る「下げもん」飾り         酒樽           茶の間(奥 勘定部屋)
白秋は、1918年に創刊した雑誌『赤い鳥』の中心的作家の一人として活躍し、「童謡」という新しいジャンルを確立。作詞家としては「城ヶ島の雨」「砂山」「あめふり」などよく知るところ。

白秋生家から5分ほどのところに、旧柳川藩主 立花邸がある。

戦国時代、豊臣秀吉の九州平定の際、豊後大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により、筑後13万石の城主とした柳川に封ぜられた。
その後、関ケ原の戦いで西軍に味方した宗茂は、柳川の地を追われることになる。流浪の身となった後も、一貫した潔い行動により徳川家の信頼を得た宗茂は、20年後の1620年、再び柳川藩主として復活をとげた。
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                           立花邸
元文3年(1738)、5代藩主貞俶は、政務の疲れを癒し、家族と和やかに過ごすための場所として、柳川城の南西隅に別邸を設けた。当時この辺りは、「御花畑」といわれていたことから、柳川の人々は親しみを込めて「御花」と呼ぶようになった。
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        西洋館         YAMAHAオルガン            大広間
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        和館               大広間                松濤園
明治時代になると、御花は立花伯爵家の別邸になり、14代当主寛治は明治42~43年にかけて、迎賓館としての西洋館と、それにつづく和館の大広間という、当時はやりの邸宅を整えた。同じく明治時代に整えられたクロマツに囲まれた華やかな池庭「松濤園」は、昭和53年、国の名勝に指定されている。

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2011年3月 4日 (金)

高千穂峡(九州への旅-6)

高千穂峡は、阿蘇山系の溶岩が、五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、急激に冷却したため柱状節理の素晴らしい懸崖となった渓谷。

高千穂峡の上に三段の橋の眺め、高千穂峡遊歩道へ (写真をクリックで拡大)
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     高千穂三代橋             神橋           峡谷沿いの遊歩道


渓谷に流れ落ちる日本の滝百選の一つ、「真名井の滝」
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                        真名井の滝
ボートの上から眺める滝は、さぞや素晴らしいことだろう。
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      渓谷に浮かぶボート                  柱状節理の断崖絶壁

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2011年3月 3日 (木)

阿蘇五岳(九州への旅-5)

バスは「やまなみハイウェイ」を走り、阿蘇外輪山を駆け降りる。途中次々と変わる景色に目が離せない。中でも大分・熊本の県境、瀬ノ本高原での阿蘇五岳の眺めは素晴らしかった。

阿蘇五岳(左から根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳と杵島岳)の様は、大自然が生み出した釈迦涅槃像の姿を現していた。 (写真をクリックで拡大)
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                  自然が生み出した釈迦涅槃像
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            根子岳                   高岳と中岳(噴煙部分)
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     烏帽子岳(手前は草千里)                     杵島岳

阿蘇山は、噴煙を上げる中岳火口見物がメイン。当日は、有毒ガスの発生はなく、火口に近づいて見学できた。大自然の息吹を感じる一時であった。
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                         阿蘇中岳
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         噴煙上げる火口                 グリーンの火口池

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